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映画『search/サーチ』の展開にがっかりした理由【映画感想】

 話題の映画『search』を観てきました。

全体を通してパソコンやiPhoneの画面上のみで展開される今作は、その斬新さから話題を呼んでいます。

ただ、ネットの評判も上々であるのは、この映画の売りはそんな設定の奇抜さだけではなくて、さりげない伏線や二転三転する犯人像など、ある意味王道とも言えるような内容の純粋な面白さも評価されている証拠だと思います。

私も序盤から中盤にかけて、前述の「新しさ」と「王道っぷり」に引き込まれ、とてもワクワクしながら見ていました。

しかし、結局、そんなワクワクをまったく消化させてもらえないまま、事件は解決し、映画のエンドロールが終わってしまいました。

細かい話をぐちぐち言いたいだけの記事になりますので、すでにこの映画を鑑賞された方向けに、物語の流れは把握している前提で書いていきます。

(以下、ネタバレがあります。)

 

 

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何が不満だったか

物語の流れの中で、最も期待した描写がありませんでした。

 

~物語の簡単な流れと、それに対する私の心境

1. 父親が女刑事が怪しいことをネットを駆使し突き止める

(←よしよしよし!!!どんでん返しだな!!!)

 2.(空白)

3.父親、警察数名と共に娘の追悼式に乗り込み、女刑事を逮捕

 (←えっ?!どうした????!!!!!)

 

同じような感想を持った人はいないでしょうか。ネットを探しても絶賛ばかりで、意図せずして逆張りマンになってしまっており、非常に心外です。

単刀直入に言えば、そこまでノリノリで鑑賞できていた私が、女刑事逮捕のシーンで当惑に追い込まれたのは、そこに当然来るべきと感じていた「父親がネットを駆使して情報を拡散する場面」が全くなかったからです。

当然、「私がそういう場面がなんとなく見たかった!」ではなく、「来るべき」とまで感じていて、物語が終わってからも違和感が拭えなかったのには理由があります。

まず、上記1の場面に至るまでに、父親はすでに警察からの信頼を失っていました。個人的に見つけた被疑者に対して傷害事件を起こし、女刑事からは捜査に関わらないように突き放されていました。

その状態で見つけたのが、警察との電話口とネットから得た、女刑事が怪しいという情報でした。

つまり、この時点で父親にとっては、女刑事含む警察はもう頼ることのできない存在であり、かつ女刑事は自分の娘を殺した真犯人と近い可能性があるという状態でした。

ここで私が考えたのは、「警察にはもう頼れず決定的な証拠もない中、どうやって女刑事を追い詰めるのだろうか…」ということでした。

 すると、次の瞬間には上記3の場面になってしまいました。

 

作品に必要のない部分はどこか

どのような作品においても当然言えることですが、特に時間的制約の大きい映画においては、物語の全ての流れが描写されることはありえません。シーンを削っていく必要があります。

そのようなときに削ってよいのは、①わざわざ描写せずとも見ている人が常識的な観点から無意識に補完することができ、かつ②作品の面白さにおいて重要ではないシーンであると考えます。

①の条件に当てはまらないシーンを削ってしまえば、作品を見ている人がついてこられなくなってしまう可能性が高まります。(当然、そのような効果を作品全体として意図している場合はこれを否定しません。)

②の条件に当てはまらないシーンを削ってしまえば、当然ですが作品の面白さが目減りしてしまいます。描かれるべきシーンが描かれないことはすごく勿体ないことだと思います。

 

描写されるべきだったこととその理由

 何度も書くようですが、上記1の場面においては、ジレンマとも言えるような難題が明確に存在しました。「警察に頼れない」と「女刑事の罪を明るみにしなければならない」です。

一般的な話になりますが、このような難題を何か特別なものが打破するのが、作品という特別な世界における爽快感ではないかと感じます。そんな役割は、作品によって様々なものに割り当てられます。アンパンマンの強さであり、コナンの頭脳であります。

今作品においてそれは明らかに「ネットの私人間での拡散力」であったと感じました。今作品において最も強い存在感を放っていたというのは言うまでもありません。加えて、公権力の悪事を告発するツールとしてこれ以上適任はありませんし、娘を捜索した際に父親がマイナスのイメージで拡散されていたことも印象的でした。

 ただ、「ネットの私人間での拡散力」がこの作品でヒーローになってほしかったというのは、どこまで言っても私の主観による期待に過ぎません。

しかし、そこに難題が存在した以上、それが何らかの形で解決される場面は絶対に必要だったと思います。

なぜなら、難題は難題である以上、作品に特有で特別なものによって解決されるものであり、その場面が描写されなければ、見ている人がついてこられなくなってしまいます。(上記で言う①にあたります。)

加えて、難題を解決するシーンとはとても爽快感のあるものです。難題は特別なものによって解決されます。また、予定調和のみが作品の面白さでは当然ありません。解決の手段が予想外であれば、それは「期待外れ」ではなく、鑑賞者を驚かせるものになります。このような問題解決は作品の面白さの根源ではないでしょうか。(上記②にあたります。)

つまり、私が期待し求めているのは、「問題解決の手段の描写がそこに存在すること」であり、「自分の好きな方法で問題解決がなされること」では断じてないということです。後者は好みの問題なので、客観的に作品に一律に求められるものではありません。

極端な例を挙げてしまえば、上記2の場面で、突然ゴジラが現れ父親を乗せて警察署に向かい説得に応じさせる、そんな描写があれば、その展開に関して好き嫌いを語ることができました。

それが、1の場面の直後、3の場面ではあっさりと警察が女刑事を逮捕してしまいました。

作品の中において事件は解決しましたが、鑑賞者側に渡されたままの難題は解決されることはありませんでした。問題解決の場面が来るべきだった2の位置には、何もなかったのです。

どうしても、1の場面から3の場面へ、常識的な繋がりを見出すことができないし、そこにあったはずの面白さ、好き嫌いを語ることのできる要素がごっそりと抜け落ちているような感覚に陥ってしまいました。

 結果として、物語の展開はわからないし、爽快感は得られないし、すごく消化不良な気持ちで映画館を後にすることになりました。

 

ちばチャン

 

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そのあと横浜駅西口にできたばかりの、「大衆居酒屋ちばチャン」に行ってきました。

 渋谷店と新宿店しか知りませんが、ボックス型の2人席が多く用意されていて、座敷で大バカ唐揚げわっしょいという、ちばチャンの個人的なイメージとは少し違う、落ち着いた唐揚げが食べられました。また行きたいです。

 

反省・注記

このようなことになったのは、私の映画の鑑賞態度に問題があるのかもしれません。

大多数の人はこの映画を違和感なく絶賛しているわけなので…

これについては後日考察しようと思っています。

また、私は映画を普段あまり見るほうでもなく、この映画に関しても1度見ただけなので、正確でない表現が多々あるかと思います。ご指摘いただけると幸いです。